猿投山 
(瀬戸市・豊田市)
 
                              2016年1月31日


                   
                            『       』内は、図鑑やネット検索からの引用です

  
アオキ(青木):ミズキ科

赤い実があちこちになっていた  艶々として、ほんとにきれい〜




スズカカンアオイ(鈴鹿寒葵):ウマノスズクサ科

左  咲き始めで、 
まだ萼片が開ききっていない

右  萼片が大きく広がり始めた

筒の部分より、萼片の方が長いのは、スズカカンアオイ




  
赤猿峠から西の宮へ行こうと下っていくと、「団九郎の岩屋」の標識を見つけた

どんなものだろうかと探しに行った・・・堰堤のそばにある大岩の隙間だった

林道へ引き返そうとすると、ブ〜ンブ〜ンとエンジン音

何事か?!と、思ったら、
オフロードバイクが、でこぼこ(なんて生易しい状態ではない大岩ごろごろ)の道を下ってきた

私たちが道の脇にいるので、配慮したのかエンジンが止まってしまった

勢いがついていれば、大岩でもぶ〜んと飛び越えてしまうのだろうが
人影を見てスピードを落としたのだろう

悪いわねえ・・・




   
今度は、四駆のジープが登ってきた

前方にある大岩を乗り越えようとさかんにエンジンをふかすが、乗り越えられない

どうするのだろうとみていると、次々に同好の仲間がやってきた  5〜6台だったか

先頭の車のドライバーが下りてきたので声をかけると、「何度も来ている」・・・と

じゃあ安心  邪魔にならないように素早くその場を立ち去った

林道とはいうものの、こんな車やバイクが通れば、道もえぐられるわな

轍も、どんどん深くなり、悪くなることはあっても良くなることはないだろう

でも、きっと、とっても面白いんだろうね!




 
 西の宮




 東の宮
  西の宮の右にある急な階段を登ると、周囲を厳重に囲ってある「大碓皇子(オオウスノミコト)」の墳墓がある

   「大碓皇子(オオウスノミコト)」について調べたら、こんなことが分かった

                ↓   ↓   ↓

  『第十二代景行天皇にはたくさんの子どもがいたが、大碓皇子(オオウスノミコト)は、
  そのうちの一人で双子の兄弟の兄。
  弟は、小碓命(オウスノミコト)−後のヤマトタケル−。

  古事記では、大碓皇子(オオウスノミコト)は、弟の小碓命(オウスノミコト)に殺されるのだが、
  彼を祀っている猿投神社では、 猿投山に登る中途で蛇にかまれ死んだと伝えられている。』

 
  もう少し「古事記」を詳しく調べると、

                ↓   ↓   ↓

  『景行天皇は、大根王(オオネノミコ)(三野国造の祖)の娘の兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)姉妹が
  美人であると聞き、大碓命(オオウスノミコト)にその視察を命じた。   *三野国=美濃国

  しかし大碓命(オオウスノミコト)は密通し、天皇には偽って別の女性を献じた。

  そして大碓命(オオウスノミコト)は、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)との間にそれぞれ男子を儲けた。

  ある時、大碓命(オオウスノミコト)が朝夕の食膳に出てこないので、天皇は小碓命(オウスノミコト)に、
  「ねぎし教えさとせ(ねんごろに教えよ)」と命じた。   *偽りがばれたと恐れて顔を出さなかったらしい。

  しかし、5日経っても大碓命(オオウスノミコト)が出てこなかったので、小碓命(オウスノミコト)に
  どう教えたのか問うと、「大碓命(オオウスノミコト)が明け方に厠に入った時、捕まえてつかみつぶし、
  手足をもぎとって薦に包んで投げ捨てた」と言ったという。』・・・だって

              ↓   ↓   ↓

  この後、天皇が小碓命(オウスノミコト)の凶暴性を深く恐れ、西方の熊襲建(クマソタケル)征伐を
  命じた有名な話へつながっていく。
  



 
猿投山山頂




 コースタイム
  雲興寺9:20・・・トイレ(修理中)・・・赤猿峠11:20・・・団九郎の岩屋・・・血洗の滝・・・
  西の宮12:30〜12:50・・・東の宮13:15・・・山頂13:40・・・休憩地
  13:50〜14:00・・・雲興寺15:30


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